
国分寺崖線の保全(水と緑の風景軸)と世田谷トラストまちづくりの市民緑地
東京都世田谷区が「みどりの生命線」国分寺崖線を守るため、水と緑の風景軸の指定と保全整備条例による建築規制を土台に、世田谷トラストまちづくりが民有地の斜面林を所有者と契約して公開・管理する市民緑地制度を重ねる、規制・契約・市民協働を組み合わせた重層的な緑地保全の仕組みを紹介する。
国分寺崖線(こくぶんじがいせん)は、太古の多摩川が武蔵野台地を削ってできた河岸段丘の連なりで、立川市付近から国分寺・小金井・三鷹・調布・狛江・世田谷を経て大田区まで、複数の自治体を横断して続く高さ10〜20mの崖である。斜面には樹林が残り、崖下からは湧水が生まれ、市街地に細長い緑と水の帯を通している。世田谷区はこの帯を「みどりの生命線」と位置づけ、区内を約8kmにわたって走る崖線とその周辺を守るための仕組みを重ねてきた。(参考:東京都環境局「立川崖線・国分寺崖線」、世田谷トラストまちづくり「国分寺崖線調査」)
本事例の特徴は、単一の制度ではなく、性質の異なる複数の手法を組み合わせて崖線の緑を守っている点にある。区は崖線一帯を景観上の「水と緑の風景軸」に位置づけ、国分寺崖線保全整備条例など複数の条例で斜面地の建築行為を規制する。その上で、崖線に点在する民有の斜面林や屋敷林については、区の関連団体である一般財団法人世田谷トラストまちづくりが土地所有者と契約を結び、税の減免と引き換えに緑地を公開・管理する「市民緑地」として保全する。さらに希少性の高い場所は特別緑地保全地区や区の特別保護区に指定し、市民ボランティアが日常の手入れを担う。規制・契約・公有地化・市民協働という異なる強さの手法を、対象地の価値と所有者の意向に応じて使い分けているのがこの取り組みの骨格である。(参考:世田谷区「国分寺崖線保全の取り組み」、世田谷区「みどりを守るための保全地区や協定など」)
国分寺崖線の緑は、その多くが民有地の上に成り立っている。斜面林・屋敷林・農地といった私有の緑は、相続の発生や宅地開発の圧力を受けやすく、いったん所有者が手放せば分譲・造成によって失われる。東京都の調査でも、国分寺崖線に残る樹林地は崖線全体のおよそ35%にとどまるとされ、連続していたはずの緑は虫食い状に分断されつつある。崖線の緑は「守るべき価値がある」ことは共有されていても、そのほとんどが行政の土地ではないため、行政が直接手を下せないという構造的な難しさを抱えている。(参考:東京都環境局「立川崖線・国分寺崖線」)
この課題は世田谷区に固有のものではない。崖線は複数の自治体・25〜30kmにまたがる広域の地形であり、一つの市区の努力だけでは連続した緑を維持できない。東京都は崖線の緑を「東京の緑の骨格」と捉え、行政界を越えた一体的な保全を促すため、2012年(平成24年)3月に「崖線の緑を保全するためのガイドライン」を策定し、関係区市町村による協議会の枠組みを整えている。世田谷区内で見られる保全の仕組みも、こうした広域の課題認識を背景に置いている。(参考:東京都都市整備局「崖線の緑を保全するためのガイドライン」)
もう一つの背景に、区全体のみどりが増えていないという現実がある。世田谷区は区制100周年にあたる2032年に、区域面積の3分の1を緑がおおう「みどり率33%」を実現する長期目標「世田谷みどり33」を掲げ、みどりの基本計画(2018〜2027年度)の柱に据えている。しかし5年ごとの「みどりの資源調査」によるみどり率の実測値は、2011年度の24.60%、2016年度の25.18%を経て、2021年度は24.38%へと前回調査から0.80ポイント低下した。目標と現実のギャップは開いており、崖線のようなまとまった緑をいかに守り抜くかが、区のみどり政策全体の成否を左右する状況にある。(参考:世田谷区「みどりの基本計画」、世田谷区「2021年度みどりの資源調査」)
世田谷区の崖線保全は、まず一帯を面的に位置づけ、開発の下限を引くところから始まる。区は景観法に基づく風景づくり計画のなかで、崖線とそれと一体になって風景をつくる区域を「水と緑の風景軸」として指定し、成城から玉川田園調布まで連なる緑の背骨を景観上の重点として扱う。加えて2005年(平成17年)3月に制定した「国分寺崖線保全整備条例」では、対象となる崖線地区(約300ha、うち傾斜度10%以上の斜面地が約183ha)で、敷地面積500㎡以上の建築物について周囲の地面との高低差を6メートル以下に抑えるなど、斜面を大きく削る建築を抑制するルールを設けた。さらに「斜面地における建築物の制限に関する条例」「みどりの基本条例」「風景づくり条例」が重なり、崖線一帯は東京都風致地区条例による「多摩川風致地区」にも指定されている。(参考:世田谷区「国分寺崖線保全整備条例」、世田谷区「国分寺崖線保全の取り組み」)
みどりの基本条例のもとでは、崖線一帯を「国分寺崖線保全重点地区」に位置づけ、建築の際に確保を求める緑の量を区内の他地域より高い水準に定めている。開発を全面的に止めるのではなく、開発が起きる際にも一定の緑を確保させる、という考え方である。(参考:世田谷区「みどりを守るための保全地区や協定など」)
規制が開発の下限を定める一方、既存の斜面林そのものを積極的に残す役割を担うのが市民緑地制度である。これは都市緑地法にもとづく仕組みで、区から緑地保全・緑化推進法人(みどり法人)の指定を受けた世田谷トラストまちづくりが、みどりの土地所有者と契約を結び、財団が維持管理を行いながら緑地を地域に公開する。対象となるのは、300㎡以上のひとまとまりの民有地で、公道に接し、常時公開できることが要件とされ、契約期間は5年以上である。所有者側には、契約した土地の固定資産税と都市計画税が全額免除されるほか、20年以上の契約であれば相続時の土地評価額も2割引き下げられるという税の優遇が用意される。土地を手放さなくても、税負担を抑えつつ緑を残せる選択肢を所有者に示す点に、この制度の要がある。(参考:世田谷トラストまちづくり「市民緑地制度」、世田谷区「市民緑地制度(土地所有者向け)」)
世田谷トラストまちづくりが管理する市民緑地は、2024年12月時点で区内16か所にのぼり、そのうち4か所が国分寺崖線沿いの成城地区に集まっている。旧字名「ハケ」に由来する斜面林の「成城三丁目崖(はけ)の林市民緑地」(約598㎡)、ユリノキ・クスノキ・メタセコイヤがそびえる「成城三丁目なかんだの坂市民緑地」(約446㎡)、農薬や化学肥料に極力頼らず管理される「成城三丁目こもれびの庭市民緑地」(約465㎡)、カシオ計算機創業者の旧邸庭園を活かした「成城四丁目発明の杜市民緑地」(約1,617㎡)である。いずれも小規模だが、崖線の斜面林・庭園・湧水環境をそのまま公開緑地として残している。(参考:世田谷トラストまちづくり「市民緑地」、世田谷トラストまちづくり「市民緑地ガイド」)
契約だけでは守り切れない、生態系として特に価値の高い緑については、より強い手法が併用される。区は都市緑地法にもとづく特別緑地保全地区を区内6か所(成城みつ池、成城三丁目崖の林、成城四丁目十一山、経堂五丁目、烏山弁天池、北烏山九丁目屋敷林)に、区みどりの基本条例による特別保護区を4か所(神明の森みつ池、烏山弁天池、深沢八丁目無原罪、経堂五丁目)に指定している。成城三丁目崖の林のように、市民緑地であると同時に特別緑地保全地区にも指定され、公開と保全の両方の網がかかっている場所もある。(参考:世田谷区「みどりを守るための保全地区や協定など」)
さらに、区が土地そのものを取得して守る事例もある。崖線上の約2ha(19,836㎡)の樹林地「成城三丁目緑地」は、国の宿舎跡地を区が買い取り、2008年(平成20年)に拡張整備を終えた区立緑地で、クヌギ・コナラ林や2か所の湧水を保つ。市民緑地のような契約保全から、特別指定、そして公有地化まで、崖線の緑は価値に応じて異なる強さの手法で守られている。(参考:世田谷区「成城三丁目緑地」、世田谷トラストまちづくり「成城三丁目緑地里山づくりコア会議」)
制度が緑地を「残す」役割を果たしても、斜面林や湧水は放置すれば荒れる。実際の下草刈り・竹の間引き・落ち葉かき・湧水の計測といった日常の維持管理は、市民ボランティアが支えている。市民緑地では複数の緑地で「市民緑地ボランティア」が毎月の定例日に園路整備や植生調査を行い、成城三丁目緑地では「里山づくりコア会議」が地域住民・明正小学校・区・トラストまちづくりの協働で保全にあたる。崖線全体を対象に活動する市民団体「崖線みどりの絆・せたがや」は、個人会員で構成され、樹木や湧水の管理に加えて調査研究や区への政策提言まで担っている。(参考:世田谷トラストまちづくり「成城三丁目緑地里山づくりコア会議」、崖線みどりの絆・せたがや)
第一の特徴は、緑地保全を単一の制度で完結させず、規制・契約・公有地化・市民協働という強さの異なる手法を意図的に使い分ける「重層構造」にある点だ。崖線のように長く連続し、しかも大半が民有地という緑地は、すべてを買い取るには公費が足りず、規制だけでは既存林の消失を止められない。世田谷区は、開発時の緑化基準を強化する規制を全域の「床」として敷きつつ、残したい斜面林は市民緑地契約で税優遇と引き換えに公開・管理し、代替の効かない生態系は特別指定や公有地化で固定するという、いわば保全手法のポートフォリオを組んでいる。(参考:世田谷区「みどりを守るための保全地区や協定など」、世田谷区「国分寺崖線保全の取り組み」)
第二に、みどり法人である世田谷トラストまちづくりが、行政と土地所有者・市民のあいだに立つ「中間主体」として機能している点である。財団が所有者と契約し、税優遇の受け皿となり、ボランティアの活動基盤を整えることで、行政が直接持ち得ない機動力と継続性を緑地保全に持ち込んでいる。相続や高齢化で緑地が失われやすい局面において、所有者にとっての現実的な選択肢(土地を残したまま税負担を軽くする)を用意できる主体が存在することが、この仕組みを回している。(参考:世田谷トラストまちづくり「市民緑地制度」、世田谷区「市民緑地制度(土地所有者向け)」)
第三に、対象が線状で広域という地形の特性に、面的な景観指定と点的な緑地保全を重ねて対応している点が挙げられる。「水と緑の風景軸」という景観の背骨を引きながら、その上に市民緑地や特別緑地保全地区という点を配置していく構成は、まとまった一団地の緑ではなく、細く長く連なる緑を守るうえで理にかなっている。(参考:世田谷区「国分寺崖線保全の取り組み」)
制度面の到達点は明確である。国分寺崖線保全整備条例をはじめとする複数条例と保全重点地区の指定によって、崖線地区での大規模な斜面地開発には緑化・高低差の基準がかかり、開発が起きる際にも緑を確保させる枠組みが整った。市民緑地は区内16か所・成城の崖線沿いに4か所が公開緑地として維持され、特別緑地保全地区6か所・特別保護区4か所・緑地協定14件と合わせて、民有の緑を残すための重層的な受け皿が実装されている。緑を「残す仕組み」が制度として存在し、稼働していること自体が、この事例の確認できる成果である。(参考:世田谷区「みどりを守るための保全地区や協定など」、世田谷トラストまちづくり「市民緑地」)
一方で、区全体のみどりが増加に転じているわけではない。みどり率は2016年度の25.18%から2021年度には24.38%へ低下し(緑被率も23.56%→22.56%)、2032年に33%とする「世田谷みどり33」の長期目標や、2027年度の中間目標29%との差はむしろ拡大している。これは、崖線に限らず区全域で宅地化圧力が緑を上回っていることを示しており、重層的な保全の仕組みは緑の喪失を「遅らせ、局所的に食い止める」効果は持つものの、区全体の減少トレンドを反転させるには至っていない、という冷静な評価が妥当である。(参考:世田谷区「2021年度みどりの資源調査」、世田谷区「みどりの基本計画」)
保全活動の担い手についても課題は残る。緑地保全を支える市民団体では、会員の高齢化や新規会員の不足が全国的に指摘されており(日本造園学会のランドスケープ研究による分析)、日常管理を市民ボランティアに大きく依存する構造は、担い手の世代交代という持続性の問いと表裏一体である。制度が緑地を「残す」ことと、その緑を「手入れし続ける」ことのあいだには、なお埋めるべき距離がある。(参考:高瀬唯ほか「市民と緑地保全活動団体の意識差からみる保全活動の参加促進課題」(ランドスケープ研究, 2014))
第一に、民有地が大半を占める緑地帯を守る際には、「単一の切り札」ではなく手法のポートフォリオを設計するという発想が参考になる。全面買収は理想的でも公費の制約から一部にしか使えず、規制だけでは既存の緑の消失を止められない。世田谷区のように、開発時の緑化基準を全域の下限として敷き、残したい民有林は税優遇付きの契約公開で維持し、代替不能な生態系は公有地化・特別指定で固定する——という強弱の組み合わせは、財源が限られるなかで緑を広く薄く守りたい自治体にとって、現実的なモデルとなる。(参考:国土交通省「特別緑地保全地区制度」、世田谷区「みどりを守るための保全地区や協定など」)
第二に、行政と所有者・市民をつなぐ「みどり法人」のような中間主体を持てるかどうかが、民有地保全の実効性を左右する。市民緑地契約や市民緑地認定制度は都市緑地法にもとづく全国共通の仕組みで、税の減免と引き換えに緑を公開・管理させる基本構造は他地域でも導入できる。ただし、所有者と契約し、税優遇の受け皿となり、ボランティアの活動を束ねる専任の団体が存在してはじめて制度は回る。制度を条例で用意するだけでなく、それを運用する主体をどう確保するかが、応用時の要点となる。(参考:国土交通省「市民緑地認定制度」、国税庁「市民緑地契約が締結されている土地の評価」)
第三に、崖線・河川・尾根といった行政界をまたぐ線状の自然を守るには、単独自治体の取り組みには限界があるという教訓である。国分寺崖線では、東京都のガイドラインと関係区市による協議会が広域連携の枠組みを担い、国分寺市の「お鷹の道・真姿の池湧水群」や調布市の「崖線樹林地保全管理計画」など、沿線各市がそれぞれの手法で同じ地形を守っている。自地域の緑が広域の自然資源の一部であるなら、隣接自治体や都道府県との連携枠組みを前提に据えることが、連続性のある保全につながる。(参考:東京都都市整備局「崖線の緑を保全するためのガイドライン」、国分寺市「お鷹の道・真姿の池湧水群」、調布市「崖線樹林地保全管理計画」)
最後に、世田谷区でみどり率が低下し続けている事実は、制度を整えても緑の減少は容易には止まらないという現実を示している。保全の仕組みは万能ではなく、その効果は「喪失を遅らせる」ところにあると冷静に捉えたうえで、担い手の世代交代や相続時の緑地承継といった構造的な弱点にどう手を打つかを、制度設計と一体で考える必要がある。(参考:世田谷区「2021年度みどりの資源調査」)
2026年7月時点の調査内容に基づいて作成
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