
太子堂二・三丁目地区の防災まちづくり(木造住宅密集市街地の整備・不燃化)
東京・世田谷区太子堂二・三丁目で1980年代から続く、住民主体の防災まちづくり。木造住宅密集市街地の課題を、まちづくり協議会・ワークショップ・沿道会議による合意形成と「修復型」の建替え誘導で克服してきた全国的な先駆事例。
東京都世田谷区の太子堂二・三丁目地区は、関東大震災後に無秩序な市街化が進み、幅員4メートル未満の狭あい道路や行き止まり路が多い木造住宅密集市街地(木密)である。この地区では、1980年(昭和55年)に区が防災まちづくりを呼びかけたことを起点に、住民が「太子堂地区まちづくり協議会」を組織し、40年以上にわたって行政と協働で防災性の向上に取り組んできた。
特徴は、大規模な再開発によって一斉に街を作り替えるのではなく、個々の建物の建替えや相続を機会として、できるところから少しずつ道路・広場・不燃化を積み上げる「修復型まちづくり」を選んだことにある。住民参加のワークショップ、沿道住民に絞った「沿道会議」による道路拡幅の合意形成、ポケットパークの整備、地区計画による建築ルールの法定化などを重ね、木密の防災課題を時間をかけて克服してきた。太子堂は住民参加型まちづくりの全国的な先進事例として知られ、国内外から多くの視察を受けてきた。 (参考:世田谷区「太子堂二・三丁目地区における防災街づくりの取組み」、栗間智子「世田谷区太子堂の住民参加のまちづくり」(早稲田大学 浦野ゼミ論文, 2017)、せたがやトラストまちづくり「太子堂まちづくり25年の成果」)
太子堂二・三丁目地区は、東急田園都市線・三軒茶屋駅の北東に位置し、南を国道246号(玉川通り)、西を茶沢通り、北を淡島通りなどに囲まれた約35.6ヘクタールの住宅地である。江戸時代は大山道(現・国道246号)沿いの小さな村だったが、1923年(大正12年)の関東大震災では下町や横浜から多くの人が移り住み、耕地のあぜ道を転用した細道沿いに木造家屋や長屋が密集していった。1945年(昭和20年)の空襲で家々の過半を失った後も、復興の中で敷地が細かく分割され、現在の密集市街地の原型が形づくられた。 (参考:栗間智子「世田谷区太子堂の住民参加のまちづくり」)
こうして形成された市街地は、防災上の大きな弱点を抱えていた。まちづくりを始めた1980年時点で、地区内の道路は幅員4メートル未満の狭あい道路が78.8%を占め、しかも狭く曲がりくねって行き止まりが多く、消防車が入りにくい状態だった。約1,803棟の建物のうち老朽木造アパートが268棟(14.9%)に及び、東京でも指折りの木賃アパート密集エリアの一部を形成していた。大地震時には同時多発火災による延焼と、倒壊家屋による避難路の閉塞が強く懸念される地区として、東京都の危険度調査で世田谷区内で最も危険な地区の一つに位置づけられていた。 (参考:栗間智子「世田谷区太子堂の住民参加のまちづくり」)
一方で、木密の課題は単なる物理的危険にとどまらない。老朽建築物の建替えを難しくしていたのは、借地・借家が多く権利関係が複雑なこと、接道条件を満たさない敷地が点在すること、居住者の高齢化が進んでいたことである。防災性を上げるために道路を広げれば、その土地に住み続けられなくなる住民が出る——この利害の対立が、太子堂のまちづくりが向き合い続けた根本的な難題だった。 (参考:世田谷区「太子堂二・三丁目地区」、栗間智子「世田谷区太子堂の住民参加のまちづくり」)
1975年(昭和50年)の区長公選で革新系の大場啓二区長が就任し、世田谷区は住民に身近な自治体として都市計画に何ができるかを模索していた。1979年(昭和54年)の基本構想・基本計画で北沢と太子堂二・三丁目を「防災街づくりのモデル地区」に位置づけ、翌1980年に区が「太子堂地区まちづくり通信」を全戸配布して、大地震時の危険性を住民に知らせた。同年10月から1年半かけて計7回の「まちづくり懇談会」が開かれたが、当初は行政への批判や住民同士の利害対立が噴出し、順調とは言えない出発だった。 (参考:栗間智子「世田谷区太子堂の住民参加のまちづくり」)
懇談会を重ねるうちに、住民の側から「批判や要求だけでは問題は解決しない」という機運が生まれ、設立準備会を経て1982年(昭和57年)11月に「太子堂地区まちづくり協議会」が発足した。協議会は、(1)住民主体、(2)誰でもいつでも参加できる開かれた組織、(3)合意形成に努める、(4)ハードだけでなくソフトを含めた総合的なまちづくり、という4原則を掲げた。公募により60名以上が参加し、地区外の住民でも希望者はオブザーバーとして加われる仕組みで、当時としては全国に例を見ない開放的な運営方針をとった。同じ1982年、世田谷区は全国的にも先駆けとなる「世田谷区街づくり条例」を制定し、協議会を制度的に位置づけた。 (参考:せたがやトラストまちづくり「太子堂まちづくり協議会について」、栗間智子「世田谷区太子堂の住民参加のまちづくり」)
協議会は、住民がまちづくりを自分ごととして考えるには基礎知識が要るという認識から、勉強会・まち歩き・まち点検を活動の中心に据えた。ここに、「子どもの遊びと街研究会」の若いメンバーが、当時アメリカの都市計画で用いられ始めていたワークショップの手法を持ち込んだ。太子堂は、防災まちづくりにワークショップを取り入れた全国で最初の地区とされる。まち点検、「トンボ広場づくり」、烏山川緑道の再生計画づくりなどにこの手法が応用され、後にまちづくりの標準的な進め方として全国に広がっていった。 (参考:栗間智子「世田谷区太子堂の住民参加のまちづくり」、せたがやトラストまちづくり「太子堂まちづくり協議会について」)
環境整備は「修復型」の考え方で進められた。広い公園を確保しにくい密集地では、小規模なポケットパークでも構わないという発想で、建替えのたびに取得できる土地を少しずつ押さえ、それらを結んで地区全体の環境を高めていく。1980年のふれあい広場の用地取得を皮切りに、1984年(昭和59年)には住民が設計段階から関わる形の草分けとして「トンボ広場」が開園した。道路についても、袋小路の突き当たりにあたる土地を建替えの機会に取得して通り抜けできる道を通し、余った部分を小広場に転用するなど、一度の用地確保で複数の効果を狙う工夫がなされた。 (参考:栗間智子「世田谷区太子堂の住民参加のまちづくり」、世田谷区「太子堂二・三丁目地区における防災街づくりの取組み」)
議論が最も対立したのは道路整備だった。1985年(昭和60年)に区が「まちづくり計画案」で6メートル道路への拡幅を示したところ、通過交通の増加や違法駐車を懸念する反対意見が多数を占めた。さらに、協議会の了解を得ないまま区が個々の建替えに対して3メートルの壁面後退を行政指導していた事実が明らかになり、協議会は強く反発した。ここで協議会は、拡幅の影響を直接受ける沿道住民に議論を絞った「沿道会議」を重ね、時間をかけて合意を積み上げる方式をとった。青空会議を開いて沿道住民の8割近くが参加し、区は当初の拡幅計画を撤回して壁面後退方式や歩道整備などの条件を示すことで、最終的に住民の同意を得ていった。 (参考:栗間智子「世田谷区太子堂の住民参加のまちづくり」)
協議会は、こうした道路・広場のルールに加え、ブロック塀や集合住宅、屋外広告物などに関する基準を議論し、その内容を法的に裏づけるべく地区計画の策定を区に働きかけた。地区住民の賛否を確認したうえで区に要望書を提出し、1990年(平成2年)に地区計画が都市計画決定された。特筆されるのは、首都高速3号線に面したマンションの屋上に掲げられた大型広告塔(マクドナルド広告塔)の紛争をきっかけに、屋外広告物への規制を法定地区計画へ全国に先駆けて明記したことである。この広告塔は1995年に完全撤去された。2016年(平成28年)の地区計画変更では、これ以上の敷地細分化を防ぐため最低敷地面積(60平方メートル)のルールを設けるなど、密集市街地におけるルールづくりの一つのあり方を示した。 (参考:栗間智子「世田谷区太子堂の住民参加のまちづくり」、世田谷区「太子堂二・三丁目地区」)
国立小児病院跡地(約11,986平方メートル)は、協議会や周辺住民の要望を踏まえ、防災機能を組み込んだ複合開発として整備された。敷地内には幅4メートルの東西通り抜け通路、防災倉庫、マンホール型トイレ、各棟の地下に防火水槽が設けられ、隣接する太子堂円泉ヶ丘公園と一体で広域避難場所として機能するよう計画された。さらに、東日本大震災を経て東京都が2012年(平成24年)1月に「木密地域不燃化10年プロジェクト」の実施方針を策定すると、太子堂二・三丁目を含む「太子堂・三宿地区」は2014年(平成26年)に不燃化特区の指定を受け、老朽建築物の除却や不燃化建替えの支援、幹線的な区画道路である三太通りの拡幅などが進められた。 (参考:世田谷区「太子堂二・三丁目地区における防災街づくりの取組み」、UR都市機構「街みちネット 第22回 太子堂・三宿地区のまちづくりについて」)
(参考:栗間智子「世田谷区太子堂の住民参加のまちづくり」、せたがやトラストまちづくり「太子堂まちづくり協議会について」)
数値で確認できる防災性の向上として、太子堂二・三丁目地区(35.6ヘクタール)の建物不燃化率は、事業導入時の1983年(昭和58年)の30.97%から2011年(平成23年)には58.85%へ上昇した。街の燃え広がりにくさを表す不燃領域率は、2001年(平成13年)の59.33%から2011年の63.37%へ改善し、地区を含む「太子堂・三宿地区」全体では2017年度末(平成29年度末)に71.1%へ達して、東京都の目標である70%を上回った。 (参考:栗間智子「世田谷区太子堂の住民参加のまちづくり」、UR都市機構「街みちネット 第22回 太子堂・三宿地区のまちづくりについて」)
オープンスペースの面でも、住民一人当たりの公園・広場面積は、事業導入時の0.43平方メートルから改善し、栗間論文の統計表では2011年に1.88平方メートルと3〜4倍程度に増えた(同論文本文には2011年で1.2〜1.3平方メートルとする記述もある)。住宅市街地総合整備事業の累積成果(2016年6月時点)では、不燃化建替えの促進24棟、道路整備のための用地取得1,355平方メートル、広場・公園の整備22カ所、行き止まり路を解消する通り抜け路の整備12カ所が確認されている。ポケットパークは30年間で18カ所ほど生まれたが、最も狭い「かどっこ広場」の46平方メートルをはじめ多くが70〜250平方メートルと小規模で、単独の防災効果には限界があるとの指摘もある。それでも、過密な街並みの息苦しさを和らげ、住民が計画段階から関わり日常的に手入れすることで、地域の交流拠点として根づいている点に、この地区ならではの成果がある。 (参考:栗間智子「世田谷区太子堂の住民参加のまちづくり」)
道路については、幹線的な三太通りの4メートル未満から6メートルへの拡幅が2017年度末時点で83.7%まで進んだ。ソフト面では、協議会活動から生まれた「楽働クラブ」が高齢者の園芸講習やポケットパークの管理・花植えを続けているほか、ワークショップでまとめた「老後も住みつづけられるまちづくり」などの提案が、その後の行政施策やまちづくりセンター・まちづくりファンドの仕組みに活かされてきた。一方で、都心回帰を背景としたミニ開発が進み、1棟だった住宅が複数棟に分割されて建物どうしの間隔が詰まるなど、緑地の喪失や再度の過密化という新たな課題も表れている。 (参考:UR都市機構「街みちネット 第22回 太子堂・三宿地区のまちづくりについて」、栗間智子「世田谷区太子堂の住民参加のまちづくり」)
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