
善福寺川上流地下調節池事業
東京都杉並区の善福寺川上流部に貯留量約30万立方メートル・延長約5.8kmのトンネル式地下調節池を整備する治水事業。総事業費約1,557億円、20年規模の長期事業だが、着工直前に住民の反対運動が広がり準備工が一時中断するなど合意形成の難しさが表面化した。
善福寺川上流地下調節池事業は、東京都杉並区内の善福寺川上流部(都立善福寺川緑地~杉並区立関根文化公園)に、貯留量約30万立方メートルのトンネル式地下調節池を整備する治水事業である。1時間75ミリの降雨に対応することを目標に、東京都建設局第三建設事務所が事業主体となり、令和3年度から令和23年度(2021~2041年度)までの約20年間、総事業費約1,557億円をかけて実施する計画である。 (参考:善福寺川上流地下調節池事業の整備について|東京都建設局)
総延長5.8キロメートルに及ぶトンネルを、地下約40~45メートルの深さで泥水式シールド工法により構築する大規模事業であり、令和6年3月の都市計画決定、令和7年1月の事業認可を経て、本体工事は東京都として初めてECI方式(技術協力・施工一括発注方式)で発注された。令和8年5月に準備工へ着手する予定だったが、地域住民から環境影響や説明不足への懸念が示され、着工直前に一部作業が中断するなど、大規模インフラ整備における合意形成の難しさが表面化している事例でもある。 (参考:善福寺川上流地下調節池事業の整備について|東京都建設局、善福寺川流域の浸水対策について|杉並区)
善福寺川流域では、過去に繰り返し水害が発生してきた。特に平成17年(2005年)9月の集中豪雨では、流域で床上・床下合わせて約1,600~1,700棟が浸水する被害が生じ、戦後有数の水害として記録されている。平成26年(2014年)7月の豪雨でも約60棟が浸水するなど、近年も水害リスクは解消されていない。令和7年(2025年)7月10日には杉並区付近で1時間約100ミリの猛烈な雨が降り、区内で記録的短時間大雨情報が発表された。杉並区阿佐谷南の飲食店街でも床下浸水が発生している。 (参考:善福寺川上流地下調節池に関するよくある質問|東京都建設局、善福寺川流域の浸水対策について|杉並区、東京都内の記録的大雨(2025年7月10日)|TOKYO MX)
流域の松見橋・西田端橋付近では、大雨のたびに水位が護岸の天端付近まで上昇する状況が続いている。杉並区は護岸整備や流域対策(建築時の雨水流出抑制施設設置の要請等)を進めてきたが、令和6年度末時点の護岸整備率は約63%にとどまり、区は令和19年度までに62万7千立方メートルの流域対策量を確保する目標を掲げている。護岸整備と流域対策だけでは、時間75ミリ級の降雨に対する抜本的な治水能力の底上げには限界があった。 (参考:善福寺川流域の浸水対策について|杉並区)
こうした状況を踏まえ、東京都は近年の時間50ミリを超える豪雨の増加により善福寺川沿川の水害リスクがさらに高まっていると判断し、1時間75ミリ降雨への対応力を持つ地下調節池の整備を必要な対策と位置付けた。神田川中流域では既に神田川・環状七号線地下調節池が同様の機能を果たしており、平成17年9月の豪雨では第一期区間(神田川)で約24万立方メートル、第二期区間(妙正寺川・善福寺川取水)で約18万立方メートル、合計約42万立方メートルの洪水を貯留し、約30ヘクタールの区域を浸水から守った実績がある。一方、善福寺川上流部にはこれに相当する調節容量を持つ施設がなく、上流部での治水施設整備が長年の課題となっていた。 (参考:善福寺川上流地下調節池に関するよくある質問|東京都建設局、コラム・事例 神田川・環七地下調節池による効果と教訓|国土交通省)
1. 都市計画決定と事業認可
東京都は東京都市計画河川第8号善福寺川の変更手続きを進め、令和6年(2024年)3月に都市計画決定、令和7年(2025年)1月に都市計画事業認可を取得した。この過程では、令和5年12月1日~15日の都市計画手続きの意見募集期間に1,000通を超える意見書が提出され、令和6年1月の杉並区都市計画審議会では賛成12・反対6という僅差で議案が可決されるなど、計画段階から賛否が割れる状況が生じていた。 (参考:善福寺川上流の地下トンネル式調節池について、今起こっていること|善福寺川流域の自然と暮らしを守る会、善福寺川上流地下調節池事業の整備について|東京都建設局)
2. トンネルの技術的な設計
事業では、都立善福寺川緑地(杉並区成田西三丁目)にニューマチックケーソン工法で発進立坑を、区立関根文化公園(杉並区上荻四丁目)に到達立坑をそれぞれ築造し、環状八号線・青梅街道・五日市街道などの地下約40~45メートル地点を、泥水式のシールドマシンを用いて掘進していく計画である。トンネルは道路幅員に合わせて内径を7.5~9メートルの範囲で変化させる必要があり、そのため「親子シールド工法」と呼ばれる特殊な工法が採用された。 (参考:善福寺川調節池ECI本体工 見積1173億円の鹿島・大成JVと随契へ|建通新聞)
3. ECI方式による発注
本体工事の発注方式には、施工者が技術協力の段階から関与するECI方式(技術協力・施工一括発注方式)が採用され、東京都の発注実績としては前例のない試みとなった。大口径・大深度かつ急曲線施工が多いという技術的難易度の高さを踏まえ、令和5年度の公募型プロポーザルで鹿島・大成JVを優先交渉権者として選定し、技術協力業務を経て、令和8年に見積金額約1,173億円で本体工事の随意契約を結んだ。発進立坑・到達立坑・連絡管立坑それぞれについて準備工・立坑工・シールド工(連絡管立坑は連絡管工)の段階を分けたスケジュールが組まれており、本体工事の完了目標は令和18年(2036年)2月、事業全体の完了は令和23年度(2041年度)とされている。 (参考:善福寺川調節池ECI本体工 見積1173億円の鹿島・大成JVと随契へ|建通新聞)
4. 準備工着手と住民との軋轢
令和8年5月、都立善福寺川緑地での準備工(樹木伐採等)の着手が予定されたが、5月8日に杉並区副区長が東京都に対し、住民理解が不十分であるとして着工延期と座談会形式の説明会開催を申し入れた。これを受け、5月11日に予定されていた作業は中止された。杉並区の岸本聡子区長は「住民との信頼関係を大切にしながら、丁寧に進めることが何より重要」との姿勢を示している。 (参考:善福寺川「調節池」計画 杉並区、東京都に説明要望 近隣住民が抗議、11日の作業中止|東京新聞)
その後も対話は続いているが、令和8年7月12日には新たな住民団体「善福寺川流域の工事被害から暮らしを守る会」が発足して100人超が参加し、7月21日には既存の「善福寺川流域の自然と暮らしを守る会」が善福寺川緑地で集会を開き、オオタカ・ツミ・アオバズクなど都内の絶滅危惧種の生息状況を踏まえた生息調査の実施、繁殖期(5~8月)の工事中断、伐採樹木の最小化を求める要請書を東京都に提出した。東京都は要請書の受領を認めた上で「現時点でお答えはできない」としている。 (参考:「工事中断を」善福寺川上流地下調節池事業で、住民が東京都に要請書|Yahoo!ニュース(朝日新聞))
1. 都内初のECI方式による大深度・大口径シールド工事
一般的な設計・施工分離発注ではなく、施工者が技術協力段階から関与するECI方式を東京都として初めて採用した点は、本事例の技術面での特徴である。急曲線・内径変化に対応する「親子シールド工法」の採用など施工リスクの高い条件を前提に、早期の施工者関与によってコストと工期のリスクを低減しようとする発注上の工夫が見られる。 (参考:善福寺川調節池ECI本体工 見積1173億円の鹿島・大成JVと随契へ|建通新聞)
2. 20年規模の長期事業を立坑ごとに段階整備する設計
発進立坑・到達立坑・連絡管立坑それぞれに準備工・立坑工・シールド工の段階を設定し、令和3年度から令和23年度までの約20年間にわたって順次整備を進める計画になっている。既存の神田川・環状七号線地下調節池も第一期(神田川区間)と第二期(妙正寺川・善福寺川取水)に分けて機能を段階的に拡張してきた経緯があり、本事業もこれに類似した長期・段階整備の手法を踏襲している。 (参考:善福寺川調節池ECI本体工 見積1173億円の鹿島・大成JVと随契へ|建通新聞)
3. 法定手続き完了後に表面化した合意形成の難しさ
都市計画決定・事業認可という法的手続きを経た後も、着工直前の令和8年5月に住民の反対で準備工が一時中断し、区が都に説明の充実を求めるという展開になった点は、本事例特有の経過である。都市計画審議会での議決が賛成12・反対6という僅差であったことからも、手続き上の合意と地域の実質的な納得との間にギャップが存在していたことがうかがえる。 (参考:善福寺川「調節池」計画 杉並区、東京都に説明要望|東京新聞、善福寺川上流の地下トンネル式調節池について、今起こっていること|善福寺川流域の自然と暮らしを守る会)
4. 防災インフラ整備と生物多様性保全の対立軸
住民側の懸念は工事車両の往来やシールド工事の安全性といった生活環境面だけでなく、緑地内に生息するオオタカなどの猛禽類を含む生物多様性の保全にも及んでいる。東京都は樹木の移植や湧水の継続観測、地表モニタリングなどの環境配慮策を示しているが、繁殖期の工事中断といった住民側の要請への回答は保留された状態にあり、防災インフラの整備と生態系保全をどう両立させるかが継続的な論点となっている。 (参考:善福寺川上流地下調節池に関するよくある質問|東京都建設局、「工事中断を」善福寺川上流地下調節池事業で、住民が東京都に要請書|Yahoo!ニュース(朝日新聞))
1. 事業手続き・発注プロセスの完了
令和8年8月時点で、トンネル本体はまだ着工前の準備工段階にあり、治水効果そのものはまだ発現していない。一方で、都市計画決定・事業認可の取得、公募型プロポーザルによる施工者選定、ECI方式での本体工事契約締結(見積額約1,173億円)までは完了しており、20年規模の事業として計画段階から実施段階への移行が進んでいる。 (参考:善福寺川上流地下調節池事業の整備について|東京都建設局、善福寺川調節池ECI本体工 見積1173億円の鹿島・大成JVと随契へ|建通新聞)
2. 既存の類似施設が示す治水効果の参考値
本事業と同様のトンネル式調節池である神田川・環状七号線地下調節池は、平成17年9月の豪雨で第一期・第二期区間合計約42万立方メートルの洪水を貯留し、約30ヘクタールの区域を浸水被害から守った実績がある。善福寺川上流地下調節池も貯留量約30万立方メートルの施設として計画されており、完成すればこれに匹敵する治水効果が期待される。ただしこれはあくまで既存施設の実績に基づく参考値であり、本事業自体の治水効果は施設完成後でなければ検証できない。 (参考:コラム・事例 神田川・環七地下調節池による効果と教訓|国土交通省)
3. 住民との対話をめぐる到達点
準備工の着工延期と座談会形式の説明会実施という杉並区の要望を東京都が一定程度受け入れた点は、対話の進展として評価できる。一方で、令和8年7月時点でも新たな住民団体の発足や絶滅危惧種保護に関する要請書の提出が続いており、事業と地域との関係は調査時点でも流動的な状況にある。 (参考:善福寺川「調節池」計画 杉並区、東京都に説明要望|東京新聞、「工事中断を」善福寺川上流地下調節池事業で、住民が東京都に要請書|Yahoo!ニュース(朝日新聞))
1. 大規模治水インフラは「効果発現までの時間」を合意形成戦略に組み込む必要がある
本事業は着工から完了まで約20年を要し、その間は治水効果が限定的なまま地域が工事の影響を受け続ける。同種の大規模インフラを検討する自治体は、事業採択の可否だけでなく、長期にわたる工事影響をどう地域に説明し、段階ごとの進捗をどう共有していくかを、計画の初期段階から制度設計に組み込むことが望ましい。 (参考:善福寺川上流地下調節池事業の整備について|東京都建設局)
2. 法定手続きの完了は、地域の実質的な納得を保証しない
都市計画決定・事業認可という法的手続きが完了していても、着工直前に住民の反対で作業が中断した本事例は、手続き上の適法性と地域住民の心理的な受容が別の課題であることを示している。パブリックコメントや審議会採決の結果が僅差だった場合、それを「合意形成の完了」とみなさず、着工後も対話のチャネルを維持する体制を用意することが、同種の事業を進める他地域でも参考になる。 (参考:善福寺川「調節池」計画 杉並区、東京都に説明要望|東京新聞、善福寺川上流の地下トンネル式調節池について、今起こっていること|善福寺川流域の自然と暮らしを守る会)
3. 早期施工者関与(ECI方式)は技術難易度の高い工事のリスク低減策として応用可能
大口径・大深度・急曲線といった施工上の難易度が高い案件では、設計と施工を分離した従来型発注よりも、施工者が技術協力段階から関与するECI方式の方が、コスト・工期両面のリスクを低減しやすい。東京都として初めての試行例である本事業の受発注プロセスは、同種の大規模土木事業を計画する他の自治体にとって、発注方式選定の参考事例となりうる。 (参考:善福寺川調節池ECI本体工 見積1173億円の鹿島・大成JVと随契へ|建通新聞)
4. 防災と生物多様性保全の両立には、個別対策以前に検討過程の可視化が問われる
住民側が求めているのは伐採本数の最小化といった個別の環境配慮策にとどまらず、代替工法や代替ルートを含めた比較検討過程そのものの公開である。防災インフラ整備において、樹木移植や地表モニタリングなどの緩和策を示すだけでなく、検討段階で比較した選択肢とその評価根拠を早期に公開することが、地域の理解形成において重要な要素となりうる。 (参考:善福寺川上流地下調節池に関するよくある質問|東京都建設局、「工事中断を」善福寺川上流地下調節池事業で、住民が東京都に要請書|Yahoo!ニュース(朝日新聞))
2026年8月時点の調査内容に基づいて作成
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