
生物多様性つくば戦略の策定とネイチャーポジティブ宣言
つくば市が2025年3月に策定した単独型の生物多様性地域戦略と、4月1日のネイチャーポジティブ宣言の事例。研究機関の集積を生かした独自の生物多様性調査(3,516種を確認)を土台に、3年間の市民参加型プロセスで策定し、保全・再生エリア数や市民の理解度といった具体的な数値目標と推進組織を盛り込んだ。
つくば市は2025年(令和7年)3月に「生物多様性つくば戦略」を策定し、計画期間を2025年度から2034年度までの10年間と定めた。続く2025年4月1日には、市として「ネイチャーポジティブ宣言」を表明している。生物多様性基本法第13条第1項に基づく「生物多様性地域戦略」であり、環境基本計画の一部としてではなく独立した戦略文書として定めた市町村は全国的にも少数にとどまる。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市、生物多様性つくば戦略(案)パブリックコメント概要書 - つくば市)
戦略の最大の特徴は、研究機関が集積する「科学のまち」という地域特性を生かした点にある。策定に先立ち市が独自に実施した生物多様性調査では、市内で3,516種の動植物が確認され、これは茨城県全体で記録される種数の27.2%に相当した。この科学的なデータと、3年間にわたる市民参加型の検討を土台に、「生物多様性の共創によるネイチャーポジティブの実現」をキャッチフレーズに掲げ、保全活動エリアの数や市民の理解度といった定量的な目標を設定している。本稿は、個々の保全サイトや市民活動ではなく、それらを束ねる市全体の政策フレームと、その作り方に焦点を当てる。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市)
つくば市は市域北部に標高877メートルの筑波山を擁し、その山頂一帯は周囲の暖温帯とは異なる冷温帯に属する。筑波山地域の自然植生、平野部に残る里地里山の二次的自然、そして生きものに配慮して計画的に建設された研究学園都市の緑地という、成り立ちの異なる三つの自然が市内に併存する点に地域特性がある。一方で、開発による生息地の改変、里地里山の管理不足(放棄水田の増加など)、外来種の侵入といった、世界共通の生物多様性の危機が市内でも進行していた。市の調査では、国・県のレッドデータブック掲載植物104種のうち40種は水田まわりやため池といった湿った環境に依存する種であり、特定外来生物も11種が確認されている。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市)
戦略策定の直接の背景には、上位計画上の位置づけと国際・国内動向の二つがある。市は2020年策定の第3次つくば市環境基本計画において、生物多様性地域戦略づくりを重点施策に据えていた。同計画は基本目標の一つに「豊かな自然環境・生物多様性を未来へつなぐ」ことを掲げており、本戦略はその目標を具体化する位置づけにあたる。同時に、2022年12月の生物多様性条約第15回締約国会議で「昆明・モントリオール生物多様性枠組」が採択され、2023年には国が「生物多様性国家戦略2023-2030」を策定して、2030年までのネイチャーポジティブ(自然再興)の実現を国の目標に据えた。自然の損失傾向を止め回復軌道に乗せるという世界目標を、地域の気候風土に即して具体化することが、市に求められる課題となっていた。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市、ネイチャーポジティブ - 環境省)
もう一つの背景は、市民にとっての自然の価値である。策定過程で実施した市民アンケートでは、市民が大切にしたいと思う自然の第1位に筑波山が挙がり、第2位には市街地の中にありながら日常的に動植物の多様性に触れられる洞峰公園が選ばれた。研究学園都市の緑が、専門家だけでなく市民の暮らしに根づいた資源として認識されていることが確かめられ、こうした身近な自然をどう守り、活用するかが戦略の論点となった。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市)
戦略の根拠となるデータを得るため、市は2023年春から2024年春にかけて「つくば市生物多様性調査」を実施した。維管束植物・哺乳類・鳥類・爬虫類・両生類・昆虫類の6分類群を対象に、季節ごとに適した時期を設定して市域とその周辺全域を調べ、筑波山頂上・中腹、桜川の上下流域、水田地帯、谷戸、都市公園とペデストリアンデッキ沿いなど20か所を重点調査地域に定めた。調査は株式会社プレック研究所と筑波大学への委託と、市民ボランティアによる調査を組み合わせ、過去の文献記録も含めて種のリストを整理している。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市)
調査の結果、市内で3,516種(維管束植物1,353種、昆虫類1,976種ほか)が確認され、茨城県全体の確認種数の27.2%に相当する多様性が、市域という限られた範囲に存在することが裏づけられた。筑波山周辺に固有のツクバハコネサンショウウオやツクバキンラン、ツクバクロオサムシなど、地名を冠した生きものの存在も確認されている。「研究学園都市エリアにこそ意外に豊かな自然がある」という調査の所見は、計画都市の緑を生物多様性の観点から再評価する根拠となった。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市、つくば市、都市型緑地保全 生物多様性のあり方探る - 日本経済新聞)
戦略は、2022年度から2024年度までの3年間にわたり、「生物多様性つくば戦略策定懇話会」を計9回開催して練り上げられた。懇話会の座長は筑波大学生命環境系の上條隆志教授、副座長はミュージアムパーク茨城県自然博物館名誉学芸員の小幡和男氏が務め、国立環境研究所、森林総合研究所、国立科学博物館(筑波実験植物園)、茨城県生物多様性センター、日本自然保護協会の研究者・専門家に加え、市内観光団体や公募の市民委員が参画した。研究機関が集まる立地を生かし、第一線の研究者が地域戦略の設計に直接関わった体制である。なお副座長の小幡氏は、洞峰公園で市民協働の樹木調査を主導したNPO法人つくばいきものSDGsの活動も監修しており、市の戦略づくりと現場の市民活動が人的にもつながっている。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市、令和6年度第9回生物多様性つくば戦略策定懇話会 会議録 - つくば市)
検討プロセスには多様な市民参加の機会が組み込まれた。2023年9月の市民アンケート、同年10月の市民ワークショップ「つくばの“お宝探し”〜生物多様性の今とこれから〜」、市民団体との意見交換会、事業者・研究機関との意見交換会、そして2024年12月から翌年1月にかけてのパブリックコメントを経て、2025年3月に戦略が策定された。専門家による科学的検討と、市民・事業者の意見を段階的に重ねた点に、策定手続きの厚みがある。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市)
戦略は「生物多様性の共創によるネイチャーポジティブの実現」をキャッチフレーズに、(1)筑波山・田園里山・研究学園都市のネイチャーポジティブを目指し保全に加え回復に挑戦する、(2)“科学のまち”の最先端の科学を学びながら多様な主体が連携・協働する、(3)生きものとの出合いが暮らしを豊かにし市の魅力となる、という3つの基本方針を掲げた。その下に、生物多様性を「守りはぐくむ」「当たり前にする」「活用する」「みんなで取り組む」という4つの基本戦略を据えている。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市)
施策のうち市の取組を先導するものとして、7つの「先導的施策」を明示した。実行力のある推進体制の構築、生物多様性モニタリング、生物多様性配慮行動促進事業、緑地管理・創出ガイドラインの策定、情報発信・集約機能の強化、活動への支援、保全・再生エリアの把握・活動である。さらに、市内を筑波山エリア・田園里山エリア・研究学園都市エリアの3つに区分し、それぞれの自然の成り立ちに応じた展開方針と重要地域ごとの取組(外来種防除や緑地管理など)を整理した。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市)
戦略策定の翌月、2025年4月1日に市は「ネイチャーポジティブ宣言」を表明した。これは、生物多様性つくば戦略のもとで自然の損失を止め回復に挑む市の姿勢を内外に示すものである。国は2022年に企業・自治体・団体が連携する「生物多様性のための30by30アライアンス」を発足させ、保護地域以外で生物多様性保全に資する区域(OECM)の拡大やネイチャーポジティブ宣言の取組を進めており、市の宣言はこの国の枠組みと足並みをそろえた地域からの意思表示にあたる。進行管理は「生物多様性つくば戦略推進委員会(仮称)」が点検・評価を担い、PDCAサイクルで運用するとともに、達成状況を毎年「つくば市環境白書」で公表する仕組みとした。中間見直しは2031年度を目安に行い、長期的には国家戦略の目標年次と同じ2050年の将来像を見据える。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市、生物多様性のための30by30アライアンス - 環境省)
第一の特徴は、独立した生物多様性地域戦略を、市が独自に集めた科学的データの上に組み立てた点である。生物多様性地域戦略を環境基本計画に含めず単独で策定する市町村は全国的に少なく、しかもつくば市は、既存の文献に頼るだけでなく6分類群・20の重点地域を対象とする市独自の悉皆的な調査を実施し、3,516種という確認種数を戦略の出発点に据えた。研究機関が立地する強みを「科学のまち」というアイデンティティに翻訳し、研究者を策定主体に組み込んで根拠に裏づけられた戦略を作った構図である。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市、つくば市、都市型緑地保全 生物多様性のあり方探る - 日本経済新聞)
第二に、生物多様性という捉えにくいテーマに、行動と認知の両面から測れる数値目標を設定した点である。保全・再生エリアを2024年9月時点の27か所から2030年度に45か所、2034年度に75か所へ増やすといった「面」の目標に加え、市民の「生物多様性理解度」を42.2%(2023年度)から70%(2034年度)へ、固有種ツクバハコネサンショウウオの認知度を32.2%から70%へ、ヤマユリを見たことがある市民を39.5%から70%へ高めるなど、市民の意識・行動を指標化した。さらに、生物多様性に配慮した食品・商品の購入割合や有機栽培圃場面積、学校給食の地産地消率といった暮らし・産業に関わる指標も組み込み、保全だけでなく持続可能な利用と行動変容を可視化しようとしている。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市)
第三に、宣言を「象徴」で終わらせず、波及を促す装置として設計した点である。戦略は、市自身がネイチャーポジティブ宣言を行うだけでなく、市内で同様の宣言を行う団体数を2030年度に累計100団体、2034年度に200団体へ増やすことを数値目標に掲げた。市の宣言を起点に、事業者や市民団体の自発的な宣言を引き出し、地域ぐるみの取組へ広げる狙いがうかがえる。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市)
第四に、戦略を「実行できる組織」とセットで構想した点である。先導的施策の筆頭に「実行力のある推進体制の構築」を据え、その中核として「つくば市生物多様性センター(仮称)」の設立を明記した。これは、戦略策定の議論で繰り返し指摘された「実効性」と「持続性」、とりわけ保全の担い手をどう確保するかという課題に応えるもので、市民団体への支援と協働の基点となる組織を行政内に持つことを意図している。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市)
2026年6月の調査時点で確認できるのは、主に「戦略を策定し、実行の前提を整えた」段階の成果である。戦略は2025年3月策定の起点に立ったばかりで、保全効果そのものはこれからのモニタリングで検証される。
一方で、戦略策定に関わった専門家自身が、計画の「実効性」と「持続性」を今後の最大の課題に挙げている。具体的には、保全の担い手となる人材の育成方法と、公共予算に依存しない財源の確保について、戦略では明記するに至っておらず、戦略策定後の宿題として残された。掲げた数値目標が現場の保全効果に結びつくかどうかは、推進組織の実装と中間見直し(2031年度目安)以降の検証を待つ段階にある。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市)
身近な緑の価値を、地域独自の調査で「数字」にする。 つくば市は研究機関の集積という固有の強みを持つが、その本質は、外部の一般的なデータに頼らず、市民ボランティアと専門家を組み合わせて自地域の生きものを悉皆的に調べ、3,516種・県の27.2%という具体的な数字を戦略の根拠にしたことにある。大学・博物館・自然系NPOなど、地域にある専門人材と市民の手を結びつけて生物相のベースラインを作る発想は、研究都市でなくとも応用できる。何がどれだけいるのかを数字で示すことが、保全施策に説得力と検証可能性を与える。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市)
「捉えにくいテーマ」に行動・認知の指標を与える。 生物多様性は成果が見えにくく、目標が抽象論に流れやすい分野である。本戦略は、保全エリア数という空間的な目標に加えて、市民の理解度・固有種の認知度・配慮商品の購入割合といった意識と行動の指標を設け、達成状況を毎年公表する仕組みを組み込んだ。施策の進捗を住民が確認できる形に翻訳することは、環境分野の計画づくり全般に通用する工夫である。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市)
宣言を「賛同の連鎖」を生む仕組みにする。 ネイチャーポジティブ宣言は、ともすれば一度きりの象徴的な表明に終わりがちである。つくば市は、自らの宣言に加えて市内で宣言する団体数の目標(累計200団体)を戦略に書き込み、行政の意思表示を事業者・市民団体の参加を促す起点へと位置づけた。宣言を政策の数値目標と接続することで、トップダウンの旗印を地域全体の運動につなげる設計は、他の自治体の宣言の実効化にも参考になる。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市、生物多様性のための30by30アライアンス - 環境省)
計画と同時に「実行する組織」を構想する。 戦略策定に携わった専門家が「高い理想を掲げても実現しなければもったいない」と述べ、推進体制と担い手・財源を最大の課題に挙げた点は示唆に富む。つくば市は先導的施策の筆頭に推進体制の構築を据え、生物多様性センター(仮称)の設立を明記した。計画文書を作ること自体を目的化せず、それを動かす組織・人・資金をどう確保するかを同時に描くことが、戦略を実装に移す鍵であることを、本事例は率直に示している。 (参考:生物多様性つくば戦略(本編) - つくば市、令和6年度第9回生物多様性つくば戦略策定懇話会 会議録 - つくば市)
2026年6月時点の調査内容に基づいて作成
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