
砧・大蔵地区 予約制乗合ワゴン(AI活用デマンド交通)
東京都世田谷区が砧・大蔵地区で運行するAI配車の予約制乗合ワゴン。定時定路線バスが成立しない公共交通不便地域で2023年5月に実証運行を開始し、利用者数や収支率に加え移動の社会的な波及効果を評価軸に据えて、2026年4月に本格運行へ移行した。
東京都世田谷区の砧・大蔵地区(砧1〜8丁目・大蔵1〜3丁目)で運行されている「予約制乗合ワゴン」は、決まった運行ルートを持たず、入った予約に合わせてAIがその都度効率のよい走行経路を組み立て、乗降地点の間を結ぶデマンド型交通である。運行区域内に設けた乗降地点でワゴン車両を呼び出す仕組みで、路線バスが入り込めない狭い住宅街の移動を担う。2023年5月1日に約3年間を目途とする実証運行として始まり、運行委託は東急バス、AI配車には株式会社未来シェアの「SAVS」が用いられている。実証開始時に33か所だった乗降地点は利用者の声を踏まえて46か所まで増え、運行日も当初の週3日(月・水・金)から2025年10月に週5日(月〜金)へ拡大した。約3年の実証で福祉・健康や地域活性化などの効果が確認されたことから、2026年4月1日に本格運行へ移行している。(参考:世田谷区「砧・大蔵地区で予約制乗合ワゴン 本格運行中」、株式会社未来シェア プレスリリース、砧町町会「予約制乗合ワゴン」)
23区内という交通至便のイメージがある世田谷区にも、鉄道駅から500m以上・バス停から300m以上離れた「公共交通不便地域」が各所に残る。区は従来、交通まちづくり基本計画のもとで南北方向の移動手段の強化や不便地域の解消に取り組み、時刻とルートを固定して走るタイプのコミュニティバスを計10路線導入してきた。しかし残された不便地域の多くは道幅の狭い狭あい道路が多く、小型バスであっても定時定路線での運行が難しいという構造的な壁があった。(参考:世田谷区「公共交通不便地域対策」、世田谷区「砧モデル地区デマンド型交通における実証運行の中間報告について」(令和6年11月))
こうした課題に対し、平成29年度には砧一丁目〜八丁目の一帯が対策の「モデル地区」に位置づけられ、ワゴン車によるコミュニティ交通を導入できないか検討が重ねられてきた。地区の高齢化も背景にある。区が令和5年時点の人口を基に行った砧地域の高齢者人口推計は長期的な増加傾向を示しており、加齢によって長距離を歩けなくなる、自転車に乗れなくなるといった住民が今後も増えることが見込まれる。ルートを固定しない予約制交通は、こうした「定時定路線バスが成立しない地域」と「移動に困る住民」の双方に応える選択肢として位置づけられた。(参考:世田谷区議会議員 桃野芳文ブログ、二子玉川経済新聞「砧・大蔵で『予約制乗合ワゴン』実証実験」、世田谷区 中間報告)
2023年5月1日、砧1〜8丁目・大蔵1〜3丁目を運行区域として実証運行が始まった。開始当初は乗降地点33か所、週3日(月・水・金、祝日含む)、午前8時30分〜午後6時、ワゴン車両1台(乗車定員8人)という体制で、運賃は大人300円・小児150円・70歳以上100円(乗車割引証の提示が必要)・未就学児無料に設定された。予約は専用予約サイトまたは電話(コールセンター)で受け付け、AI配車システムが予約を束ねて相乗りの最適経路を組む。実際の予約はWEBが約7割、電話が約3割で推移している。(参考:株式会社未来シェア プレスリリース、世田谷区 中間報告)
運行主体は区だが、実際の担い手は地域との協働で構成される。砧町町会や自治会、祖師谷南商店街振興組合などによる地元協議会を軸に、砧まちづくりセンター、社会福祉協議会、運行事業者の東急バスが連携する体制がとられた。周知活動は地域特性に合わせて地道に積み重ねられ、高齢者が集うお茶会でのスマートフォン予約講座や乗車割引証の発行、オープンハウスの開催、砧モデル地区内の約15,000世帯へのコミュニティ交通ニュースの配付、町会の回覧・掲示板ポスター、商店街や集合住宅との連携などが継続された。「守り育てる」担い手を地域の中につくることに重きが置かれている。(参考:世田谷区 中間報告、二子玉川経済新聞)
実証は走らせながら改善する形で進んだ。2年目には利用者の要望を反映して乗降地点を46か所(2か所増)へ拡充し、運行の終了時刻も1時間繰り下げて午後7時に改めた。一方、1年目の年末年始(12月29日〜1月3日)の利用が1日平均13人と少なかった結果を踏まえ、年末年始は運休とする判断も下している。予約システムの改修や車体デザインの改善も運行事業者と共に行われた。2024年11月には中間報告が取りまとめられ、その知見を踏まえて2025年10月に運行日が週5日(月〜金)へ拡大。2026年4月1日の本格運行移行では、車いすのまま乗車できるユニバーサルデザイン対応車両への切り替え、せたがやPayによる支払い導入、ふるさと納税を通じた寄附募集の開始など、持続性を高める仕組みが加えられた。(参考:世田谷区 中間報告、世田谷区「砧・大蔵地区で予約制乗合ワゴン 本格運行中」、砧町町会)
最大の特徴は、本格運行を判断するための評価軸を、従来の公共交通が重視してきた「利用者数」「収支率」だけに置かなかった点にある。区は中間報告で、利便性の向上や利用者の日常生活の満足度など「移動が持つ社会的インフラとしての波及効果」を正面から検証項目に加え、「地域と連携した取組みによる成果」「デマンド型交通の利用状況」と合わせた3つの視点で成果を整理した。福祉の観点を織り込んだ実現可能な数値目標を掲げ、他地区へ広げる際の手本とする姿勢が明確に示されている。(参考:世田谷区 中間報告)
これは福祉政策と交通政策を統合する設計とも言える。高齢者の運賃を割引証提示で100円に抑える福祉的支援は、収支率を押し下げる要因になるが、区はこれを「失敗」ではなく政策的な選択として扱い、収支の数字と社会的効果を切り分けて評価している。運営面でも、コールセンター業務を近隣の宇奈根・喜多見地区のデマンド型交通と共有して経費を抑えるなど、単独では成り立ちにくい仕組みを地域横断で支える工夫が見られる。社会福祉協議会やまちづくりセンターとの連携により、移動サービスが単なる足の確保にとどまらず、地域のコミュニティづくりの触媒として機能している点も、交通単独の事例にはない広がりである。(参考:世田谷区 中間報告、世田谷区「喜多見・宇奈根地区オンデマンド輸送」)
利用は着実に伸びた。運行開始当初は1日あたり30人程度だった利用者が、周知活動と運行改善を重ねる中で徐々に増え、最大73人が利用する日も現れ、中間報告時点では1日あたり約50人程度で推移している。1台のワゴンに5〜8人が乗り合わせる便も出ている。同時期に実施されていた他自治体のAIデマンド交通と比べると、1日あたり利用者数は砧モデル地区が46.3人、他自治体が18.5人と、多く利用されていることが確認された。WEB登録は累計1,115人(1年目912人・2年目203人)と1,000人の大台に達し、70歳以上向けの乗車割引証も597枚(約600人分)が発行された。(参考:世田谷区 中間報告)
利用実態は高齢者の生活を支える姿を映す。利用件数の約6割を70代以上が占め、身近な交通手段として高齢者に受け入れられている一方、WEB登録者は30〜40代の子育て世代が約5割を占めるという、登録者層と実利用層のねじれも見られる。中間報告のアンケート(387通)では、総合満足度で「満足」「やや満足」が6割を超え、主な利用目的は通院・リハビリ(23.9%)、娯楽・余暇活動(20.7%)、買物(16.9%)で合わせて6割超に達した。「乗降場所が自宅や目的地のそばにあって利用しやすい」との回答は約8割(76.6%)に上る。利用してからの変化としては「利便性が向上した」56.5%、「目的地までの所要時間が減少した」41.1%が多く、「利便性が向上した」と「日常生活の満足度が上がった」の合計は約8割を占めた。(参考:世田谷区 中間報告)
数字の背後には具体的な生活の変化がある。長距離を歩けなくなり、自転車にも乗れなくなって通院をあきらめていた住民が「デマンド型交通を利用して、通院を再開することができるようになった」という声や、建て替えられた集合住宅(大蔵住宅→カーメスト大蔵の杜)で、一人暮らしや近所に知り合いのいない高齢者を対象に、乗合ワゴンを使ったランチ会が住民の発意で開かれた事例などが報告されている。参加者からは「暑い中でもドア・ツー・ドアのように行けたので、楽でした」「外食は久しぶり、一人だと行かないから」といった声が寄せられ、移動が外出機会や地域交流を生み出す起点になっている。収支面では、割引証提示後運賃を反映した収支率が1年目9.0%から2年目14.7%へ改善(割引を適用しない場合は17.1%→23.1%)し、地元企業などからの協賛は広告協賛の開始により実証1年目の5倍を超える水準に伸びた。(参考:世田谷区 中間報告)
第一の示唆は、デマンド交通の「成否」を利用者数と収支率だけで測らない評価枠組みである。福祉的運賃を導入すれば収支率は下がるが、外出機会の創出や通院の再開といった生活の質の向上、コミュニティ形成といった波及効果は別の指標で捉えられる。世田谷区が福祉の観点を組み込んだ実践的な数値目標を掲げ、収支の数字と社会的効果を分けて論じた姿勢は、公費負担を伴うコミュニティ交通の本格運行判断を迫られる他の自治体にとって、再現可能な評価の型となる。(参考:世田谷区 中間報告)
第二に、「成功が新たな課題を生む」構造への向き合い方である。利用者が増えるほど「予約が取りにくい」という声が強まり、割引運賃の高齢者利用が想定を超えて増えるほど収支率が下がる。運転手不足も重なる。この事例では運行曜日の拡充と協賛獲得・運賃のあり方の検証で対応しているが、需要が伸びるほど供給とコストの制約が顕在化する点は、規模拡大を目指す取り組みが共通して直面する壁として参考になる。あわせて、実利用の中心が高齢者である一方でWEB登録の主力は子育て世代という層のズレは、デジタル予約を前提とする交通が主要利用者に届くには、スマホ講座やお茶会のような地道な対面周知が欠かせないことを示している。(参考:世田谷区 中間報告)
第三に、単発の実証で終わらせず横展開の仕組みに落とし込んでいる点である。区は令和7年3月策定の「地域公共交通計画」に公共交通不便地域対策の推進を位置づけ、砧モデル地区の知見を反映した「コミュニティ交通導入ガイドライン」を整備した。地域・交通事業者・区の役割分担や地域協議会の立ち上げ手順を示し、重点検討地域を設定して他地区への「世田谷型デマンド交通」の展開を図る流れは、一つのモデル地区を制度と手引きに転換して面的に広げる進め方として応用可能である。(参考:世田谷区「公共交通不便地域対策」、世田谷区 中間報告)
2026年07月時点の調査内容に基づいて作成
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