
杉並区産MaaS「ちかくも」
東京23区初のLINE活用型MaaSとして2025年1月に始動した杉並区の地域交通サービス。グリーンスローモビリティとAIオンデマンド交通を組み合わせ、高齢者や子育て世帯の移動課題解決を目指す
杉並区産MaaS「ちかくも」は、2025年1月8日にサービスを開始した地域交通プラットフォームである。「小さな移動が大きな移動を生む」というコンセプトのもと、LINE公式アカウントを活用したMaaSアプリ、荻窪地域を走るグリーンスローモビリティ、堀ノ内・松ノ木地区のAIオンデマンド交通を統合し、多様な移動手段を一元的に提供する。東京23区で初めて区公式LINEアカウントをMaaSアプリとして活用した点、3社のシェアサイクル情報を統合表示した点が自治体MaaSとして全国初の取り組みとなっている。 (参考:杉並区公式サイト、ヴァル研究所プレスリリース)
杉並区は、2024年4月に労働基準法の改正が適用され、バス運転士の勤務時間に関する新たな規制(いわゆる「2024年問題」)が導入されたことで、人員確保がより困難になるという課題に直面した。時間外労働の上限規制やインターバルの見直しにより、バス会社は運転士の人員配置を見直さざるを得なくなり、区内でも一部路線で減便が実施されている。ベテラン運転士の定年退職が続く一方で、若手人材の採用が思うように進まない状況が重なり、今後さらなる減便や路線の廃止・縮小が懸念されていた。 (参考:杉並区公式サイト バス運転士不足について)
杉並区は道幅の狭い路地が入り組む住宅密集地域であり、高齢者や小さな子どもを連れた家庭にとって移動の選択肢が限られている。既存の路線バスではカバーしきれない地域が存在し、特に堀ノ内・松ノ木地区はバスの運行がない交通不便地域として認識されていた。こうした地域では、病院やスーパーといった日常生活に必要な施設へのアクセス確保が喫緊の課題となっていた。 (参考:杉並区公式サイト)
杉並区は2023年3月に策定した地域公共交通計画において、「誰もが気軽で快適に移動できる地域社会の実現」を掲げた。この計画に基づき、既存の公共交通を補完する新たな交通システムとして、グリーンスローモビリティやAIオンデマンド交通の導入が検討された。 (参考:杉並区公式サイト グリーンスローモビリティの本格運行に向けた取り組み)
杉並区は本格運行に先立ち、段階的な実証実験を通じて知見を蓄積した。2022年3月には荻外荘公園周辺でグリーンスローモビリティの試乗会を実施し、参加者アンケートでは高い満足度が示された。同年11月には荻窪駅南側地域(約2.9km)で11日間の実証運行を行い、566人が乗車。運賃についてのアンケートでは100円程度を支持する声が大半を占めた。 (参考:杉並区公式サイト グリーンスローモビリティの本格運行に向けた取り組み)
2022年10月には、NTT東日本東京事業部と「MaaS等の活用及びオープンデータの拡充等に向けた協定」を締結。データプラットフォームの構築や、エビデンスに基づく政策立案(EBPM)の推進に向けた連携を開始した。同年11月には、株式会社建設技術研究所、関東バス、NTT東日本の3社連携によるグリーンスローモビリティ実証運行を実施し、走行位置情報や乗車人数をリアルタイムに把握するシステムの検証を行った。 (参考:NTT東日本プレスリリース)
2024年5月から8月には、有償による実証運行を実施。2,773人が利用し、「地域住民の足」としての有効性が確認された。 (参考:杉並区公式サイト グリーンスローモビリティの本格運行に向けた取り組み)
杉並区はプロポーザル方式で事業者を選定し、経路検索サービス「駅すぱあと」で30年以上の実績を持つ株式会社ヴァル研究所が「ちかくも」アプリの構築・運用保守を担当することとなった。また、MaaSや地方創生事業の専門家である合同会社うさぎ企画がアドバイザーとして参画し、実証実験の設計や評価検証を担当する体制が整えられた。AIオンデマンド交通には、株式会社未来シェアのSAVS(Smart Access Vehicle Service)技術が採用された。 (参考:ヴァル研究所プレスリリース、未来シェアプレスリリース)
2024年11月25日にグリーンスローモビリティの本格運行を開始。2025年1月8日には「ちかくも」アプリとAIオンデマンド交通のサービスを開始した。その後も機能拡充が続けられ、2025年12月18日にはシェアサイクル「LUUP」のポート情報が追加された。ハローサイクリング、ドコモ・バイクシェア、LUUPの3社のシェアサイクル情報を統合表示する機能は、自治体運営のMaaSとして全国初の取り組みである。 (参考:杉並区公式サイト、LUUPプレスリリース)
「ちかくも」アプリは、専用アプリのダウンロードを必要とせず、杉並区LINE公式アカウントのメニューからアクセスできる。LINEは国内で1億人以上が利用しており、この既存の普及基盤を活用することで、特にスマートフォン操作に不慣れな高齢者でも利用しやすい設計となっている。都内23区において、自治体の公式LINEをMaaS基盤として運用する初の事例となった。 (参考:ヴァル研究所プレスリリース)
グリーンスローモビリティやAIオンデマンド交通といった「小さな移動」を提供することで、駅やバス停へのアクセスを改善し、結果的に鉄道やバスといった「大きな移動」の利用機会も増加させるという設計思想を持つ。サービス名の「ちかくも」には、「近くへの移動も遠くへの移動も便利にしたい」という思いが込められている。 (参考:ちかくも公式サイト)
単なる交通手段の提供にとどまらず、「おでかけしたくなる」きっかけづくりを重視している。アプリ内の「おでかけマップ」では、公園や遊び場、飲食店、イベント情報などを地図上に表示し、日常的な外出を通じて身近な地域の新たな魅力を発見してもらうことを目指している。 (参考:ちかくも公式サイト)
ハローサイクリング、ドコモ・バイクシェア、LUUPの3社のシェアサイクルポート情報と空き状況を一元表示する。利用者は複数のアプリを切り替えることなく、最適なシェアサイクルを選択できる。この事業者の垣根を越えた統合は、自治体MaaSとして全国初の試みである。 (参考:杉並区公式サイト)
2024年11月の本格運行開始から3ヶ月時点で、日平均の利用者数は約90人弱で推移している。当初は観光客利用がメインと予想されていたが、実際には地域住民の利用が想定以上に多く、特に高齢者の利用が目立つ。利用者からは「便数を増やしてほしい」「図書館や角川庭園も経由してほしい」「荻窪以外のエリアにも導入してほしい」といった前向きな要望が多数寄せられている。 (参考:マイナビニュース)
グリーンスローモビリティは2025年11月25日に本格運行開始1周年を迎え、記念として荻窪駅西口停留所で特別な周遊マップの配布が行われた。 (参考:杉並区公式サイト)
堀ノ内・松ノ木地区で2025年1月から実施されているAIオンデマンド交通の実証運行は、実績や利用者ニーズを踏まえた検討の結果、2026年12月31日まで継続することが決定された。 (参考:杉並区公式サイト AIオンデマンド交通運行情報)
グリーンスローモビリティの運行開始と、近衛文麿元首相の旧邸宅である荻外荘公園(国史跡)の一般公開開始(2024年12月9日)のタイミングが重なり、テレビや新聞で報道されたことで区内外への認知が進んだ。移動サービスと観光資源を連携させることで、地域の魅力向上に貢献している。 (参考:ちかくも公式サイト)
専用アプリではなくLINEを活用することで、高齢者を含む幅広い世代がアクセスしやすいMaaSを実現できる可能性を示した。LINEは国内で広く普及しており、新たなアプリのダウンロードという心理的ハードルを下げる効果がある。
2022年から複数回の実証実験を重ね、利用者の声を反映しながら本格運行に至った過程は、住民ニーズを踏まえたサービス設計の参考となる。特に運賃設定について利用者アンケートを実施した点は、受容性の高いサービス構築に有効なアプローチである。
単なる移動手段の提供ではなく、おでかけスポット情報やイベント情報を統合することで、「移動の目的」まで含めて提案する設計は、利用促進と地域活性化の両立を図る手法として参考になる。
既存の公共交通の代替ではなく補完として位置づけることで、バス事業者との関係を維持しながら新たな交通手段を導入できることを示した。グリーンスローモビリティやAIオンデマンド交通は、路線バスではカバーしにくい狭い道路や需要の分散した地域に適している。
2026年3月時点の調査内容に基づいて作成
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