
杉並区公契約条例
杉並区が2020年に施行した公契約条例。工事・委託契約に「労働報酬下限額」を設け審議会答申を踏まえ毎年改定し、2022年度の時給1,093円から2026年度は1,500円へ上昇。2024年の実態調査では賃上げ効果と下請けへの浸透不足が明らかになった。
杉並区は2020年8月1日、公契約に関わる工事や委託業務の現場で働く人たちの賃金と労働条件を底上げすることをねらいとした独自条例「杉並区公契約条例」を施行した。対象は予定価格5,000万円以上の工事・製造請負契約、清掃・警備・給食調理・学童クラブ運営など11業務類型に該当する予定価格1,000万円以上の請負・委託契約、そして規模を問わず全ての指定管理協定であり、実際の適用は2021年4月1日以降に締結される契約からとされている。受注者およびその下請け・再委託先は、区長が毎年告示する「労働報酬下限額」以上の賃金を労働者に支払うことを義務付けられる。下限額は事業者団体・労働者団体・学識経験者で構成する杉並区公契約審議会の答申を踏まえて区長が定める仕組みで、条例制定は当時、都内では渋谷区・世田谷区・目黒区・新宿区に続く10例目、全国では24例目だった。 (参考:杉並区公契約条例|杉並区公式ホームページ、杉並区で公契約条例制定/全国で24例目)
労働報酬下限額は毎年見直され、業務委託・指定管理協定の下限額は2022年度(令和4年度)の時給1,093円から2026年度(令和8年度)には1,500円まで引き上げられた。この額は2025年10月に改定された東京都の法定最低賃金(時給1,226円)を上回る水準であり、公契約という一部の契約類型に限られるとはいえ、自治体が発注者として最低賃金を上回る賃金水準を実質的に誘導している点が特徴といえる。 (参考:杉並区告示825号(令和4年度労働報酬下限額)、杉並区告示898号(令和8年度労働報酬下限額)、東京都最低賃金を1,226円に引き上げます|東京労働局)
公共工事・公共サービスの発注は、価格競争を通じたコスト削減が優先されやすく、その帰結として現場労働者の賃金が圧迫されるという構造的な課題が全国的に指摘されてきた。発注者である自治体が支払う契約金額が適正であっても、下請け・再委託の階層を経る過程で労働者本人の手取りにまで還元される保証はなく、公共調達が結果的に低賃金労働を助長しかねないという問題意識が、公契約条例という制度の背景にある。
杉並区でこの課題を可視化したのは、建設労働者でつくる東京土建杉並支部が2014年度から継続してきた独自の賃金実態調査だった。調査では、経験35年の大工が日給1万5,000円しか得ておらず、これは国が公共工事の予算積算に用いる設計労務単価の61%水準にとどまることが明らかになった。こうした実態が2018年、田中良区長(当時)との懇談の場で共有され、区長が「1年後ぐらいに成立を目指したい」と発言したことが、条例制定に向けた動きを後押しした。 (参考:杉並区で公契約条例制定/全国で24例目)
杉並区議会は2020年3月、公契約条例案を賛成多数で可決した。同年8月1日に施行され、実際の契約への適用は翌2021年4月1日からとされた。この制度は2022年6月の区長選挙を経て同年7月に就任した区長交代(田中良区長から岸本聡子区長へ)を挟んでも継続しており、2026年度の労働報酬下限額の告示も岸本区長名で発出されている。 (参考:杉並区告示898号(令和8年度労働報酬下限額))
1. 対象契約の階層的な設計
条例は、対象となる「特定公契約」を3種類に分けて定義している。工事・製造請負契約は予定価格5,000万円以上、清掃・警備・給食調理・学童クラブ運営など11の業務類型に該当する請負・委託契約は予定価格1,000万円以上を対象とし、指定管理協定については規模を問わず全てを対象とする(条例施行前に公募が行われた協定を除く)。予定価格による線引きを設けることで、小規模事業者への事務負担を一定程度抑えつつ、区の発注額の大部分をカバーする設計になっている。 (参考:杉並区公契約条例|杉並区公式ホームページ)
2. 審議会答申に基づく労働報酬下限額の毎年改定
労働報酬下限額は固定額ではなく、事業者団体・労働者団体・学識経験者で構成される杉並区公契約審議会の答申を踏まえて区長が毎年定め、3月に告示する仕組みになっている。工事・製造請負契約については、大工・とび工・電工など職種別の熟練労働者単価(公共工事設計労務単価に準拠した別表)と、それ以外の労働者向けの一律単価の2階建てで設定され、業務委託・指定管理協定については単一の時給下限額が設定される。年1回の告示という運用により、東京都の法定最低賃金が短期間で大きく上昇する局面でも、下限額を追随して見直せる柔軟性を持たせている。 (参考:労働報酬下限額について|杉並区公式ホームページ、杉並区告示898号(令和8年度労働報酬下限額))
3. 違反への対応と実効性を担保する仕組み
条例は、労働報酬下限額を下回る賃金しか支払われていないと感じた労働者(退職者を含む)が、区または受注者等に直接申し出ることができる制度を設けている。申し出を行った労働者に対する不利益取り扱いは禁止され、区には立入調査の権限がある。また、下請け・再委託先で違反があった場合は元請け(受注者)が連帯責任を負う仕組みとなっており、契約の階層構造の末端まで実効性を及ぼそうとする設計になっている。 (参考:杉並区公契約条例(労働者等の方向け)|杉並区公式ホームページ、杉並区で公契約条例制定/全国で24例目)
4. 多言語・多チャネルでの周知
区は事業者向けに「公契約条例のお知らせ(労働者周知様式)」を日本語・英語・ベトナム語・中国語(繁体字・簡体字)で用意し、周知ポスターや周知カードとあわせて配布している。元請けとなった事業者は、これらの様式を使って下請け・再委託先や現場の労働者に条例内容を周知することが求められる。 (参考:公契約条例のお知らせ(労働者周知様式)|杉並区公式ホームページ)
5. 施行後の実態調査による検証
区は2024年3月8日から4月30日にかけて、条例の対象となる元請け・下請け事業者と、現場で働く労働者を対象にWebアンケート調査を実施した。元請け・受注者への調査対象は120件(回答65件、回答率54.2%)、労働者への回答は423件(工事63件、委託・指定管理360件)に達し、事業者・労働者双方の視点から条例の周知状況や賃上げの実施状況、課題を把握する内容になっている。調査結果は同年7月に報告書としてまとめられ、区のホームページで公開された。 (参考:公契約条例アンケート調査結果について|杉並区公式ホームページ、杉並区公契約条例に関するアンケート調査結果(令和6年7月))
1. 申出制度・連帯責任・立入調査を組み合わせた実効性の設計
全国の公契約条例のうち、賃金の支払いを義務付ける条項(賃金条項)を持つものは2025年9月時点で91条例中33条例にとどまり、残りは理念や努力義務にとどまる「理念型」条例である。杉並区の条例は賃金条項を持つ33条例の一つであり、加えて労働者(退職者を含む)の申出権、申出者への不利益取り扱い禁止、下請け違反時の元請けの連帯責任、区の立入調査権という複数の仕組みを組み合わせている点で、実効性を重視した設計になっている。 (参考:公契約条例|RILG 一般財団法人地方自治研究機構、杉並区公契約条例(労働者等の方向け)|杉並区公式ホームページ)
2. 制定から4年後に効果を定量的に検証した数少ない事例
杉並区は施行から約3年半が経過した2024年に、元請け・下請け双方の事業者と労働者本人の両面からアンケートを実施し、賃上げの実施率や労働者の認知度、下限額以上の賃金が実際に支払われているという実感の有無まで数値で公開した。理念や制度の説明にとどまらず、運用の実態を測定し公表するプロセス自体が、他の自治体が同種の条例を設計・改善する際の参考になる。 (参考:杉並区公契約条例に関するアンケート調査結果(令和6年7月))
3. 元請けと下請けの間に生じる実施格差を可視化した
この実態調査が明らかにした最も示唆に富む点は、条例の効果が契約の階層構造に沿って一様には及んでいないという事実そのものである。元請け事業者では工事75%・委託95.6%が賃上げを実施したと回答した一方、下請け・再委託先では工事45.5%・委託25%にとどまった。同様に、条例の認知度も下請け・再委託先の労働者では元請け労働者より低い傾向が見られた。制度設計上は連帯責任や周知義務が定められていても、実際の運用では下請け階層への浸透に構造的なギャップが生じることを、施行後の検証によって具体的な数値で示した点は、他の自治体にとっても重要な知見となる。 (参考:杉並区公契約条例に関するアンケート調査結果(令和6年7月))
1. 労働報酬下限額の上昇(業務委託・指定管理区分)
業務委託・指定管理協定に適用される労働報酬下限額は、2022年度(令和4年度)の時給1,093円から2026年度(令和8年度)の時給1,500円へ、4年間で407円(約37%)上昇した。工事・製造請負契約における一般労働者向け下限額も同期間に時給1,275円から1,637円へ、職種別の熟練労働者単価(大工の例)も時給2,880円から3,443円へ上昇している。2026年度の委託・指定管理向け下限額(時給1,500円)は、2025年10月改定後の東京都法定最低賃金(時給1,226円)を274円上回る水準にある。 (参考:杉並区告示825号(令和4年度労働報酬下限額)、杉並区告示898号(令和8年度労働報酬下限額)、東京都最低賃金を1,226円に引き上げます|東京労働局)
2. 元請けでの高い賃上げ実施率
2024年の実態調査によれば、条例適用によって賃金を「上げた」と回答した元請け事業者は、工事で75.0%(20件中15件)、委託・指定管理で95.6%(45件中43件)に達した。「上げていない」と回答した元請けの理由は、工事・委託ともに全件が「もともと労働報酬下限額以上の賃金だったため」であり、賃上げをしなかった事業者の大半は制度導入前から下限額を上回る賃金水準にあったことを示している。 (参考:杉並区公契約条例に関するアンケート調査結果(令和6年7月))
3. 現場が実感した効果
条例の適用によって何らかの効果を感じたと回答した元請け事業者の割合は、工事で65%、委託・指定管理で約87%に達した。具体的には「従事者の生活安定に結び付いた」(委託・指定管理で51.1%)、「従事者の労働意欲が向上した」(同51.1%)といった回答が多く、委託・指定管理では「人材の確保に改善が見られた」との回答も44.4%を占めた。 (参考:杉並区公契約条例に関するアンケート調査結果(令和6年7月))
4. 労働者本人の認知度と受給実感には差がある
一方で、労働者本人への調査では「杉並区公契約条例」を知っていたと回答したのは全体の43.7%にとどまり、56.3%は「知らなかった」と回答した。特に工事従事者では認知度が28.6%まで下がる。条例の存在を知っていた労働者に限っても、「労働報酬下限額」そのものは8割以上が認知していた一方、区や事業者へ改善を申し出られる仕組みがあることを知っていた労働者は、元請けで4〜5割台(工事55.6%、委託・指定管理42.5%)にとどまり、下請け・再委託先ではさらに低い水準だった。実際に労働報酬下限額以上の賃金が支払われていると思うと回答した労働者は全体の84.6%で、「支払われていない」は3.1%、「わからない」が12.3%だった。 (参考:杉並区公契約条例に関するアンケート調査結果(令和6年7月))
5. 事業者が指摘する課題
事業者調査では、元請けの課題として「特定公契約と他の案件との給与バランス」(委託・指定管理で71.1%)と「従業員・下請けへの周知」(工事で60.0%)が上位に挙がった。自由記述では、下限額の引き上げが入札価格に転嫁できないという声や、「130万円の壁」など就業調整と絡む運用上の困難、下限額と併せて「最低制限価格」の設定を求める声も見られた。 (参考:杉並区公契約条例に関するアンケート調査結果(令和6年7月))
1. 施行後の効果検証を制度の一部として組み込む
公契約条例は制定・施行がゴールではなく、実際に賃金が引き上げられ、労働者に認知され、申出制度が機能しているかという運用実態を継続的に把握して初めて政策効果を評価できる。杉並区が施行から3年半を経て元請け・下請け・労働者の三者にアンケートを実施した手法は、対象事業者リストと労働者への周知チャネル(周知カード等)をすでに持つ自治体であれば比較的低コストで再現可能であり、条例を制定済みの他自治体にとっても導入しやすい検証手法といえる。
2. 下請け階層への浸透は元請け任せにせず個別に設計する
今回の調査では、元請けでの賃上げ実施率(工事75%・委託95.6%)と下請け・再委託先での実施率(工事45.5%・委託25%)の間に明確な差が確認された。条例に連帯責任や周知義務を規定するだけでは下請け階層まで効果が行き渡るとは限らず、区が下請け・再委託先に直接アンケートやヒアリングを行う、下請け向けの周知資料を別途用意するなど、階層ごとに異なる働きかけを設計する必要性が示唆される。
3. 労働報酬下限額を審議会方式で毎年改定する仕組みは、最低賃金の急上昇局面に対応しやすい
東京都の法定最低賃金は2024年10月から2025年10月の1年間で時給1,163円から1,226円へ63円上昇するなど、近年上昇ペースが速い。杉並区のように審議会答申を経て毎年見直す仕組みにしておけば、法定最低賃金の上昇に労働報酬下限額が置き去りにされるリスクを抑えられる。条例本文に固定額を書き込むのではなく、年次改定の手続きを制度化しておくことは、他自治体が同種の条例を設計する際に参考になる論点である。
4. 労働者への周知は「雇用主からの説明」が最も有効という現場の声を活かす
労働者調査では、条例の周知方法として最も有効だと考えるものを尋ねたところ「雇用主からもっと詳細に説明すること」が47.0%で最多となり、「区からの情報発信(チラシなど)」の43.5%を上回った。ポスターや周知カードの掲示だけでなく、雇用契約や現場の朝礼など雇用主から労働者への直接の説明機会を条例の周知義務に明確に組み込むことが、認知度向上につながる可能性がある。
5. 賃金下限と発注価格の両輪で制度設計を検討する余地がある
事業者からは、労働報酬下限額の引き上げが入札価格に転嫁できず事業者側の負担になっているという声や、下限額を下回る安値受注を防ぐための「最低制限価格」の設定を求める声が寄せられた。労働報酬の下限を定める条例と、ダンピング受注を防ぐ入札制度(最低制限価格・低入札価格調査制度等)を組み合わせて検討することが、事業者の持続的な協力を得るうえで論点になり得る。 (参考:杉並区公契約条例に関するアンケート調査結果(令和6年7月)、東京都最低賃金を1,226円に引き上げます|東京労働局)
2026年8月時点の調査内容に基づいて作成
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